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             メール・マガジン

       「FNサービス 問題解決おたすけマン」

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       第002号     ’99−07−02

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           「問題」は人間が起こす

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●人間についての定義は

 

色々ありますが、「満足を知らない動物」というのはどうでしょうか?

脳の前頭葉が発達したからだと申しますが、何しろキリがありません。

 

「より良く」なろうと求める気持ち、即ち向上心は必要だし、また、

賞賛されます。たとえばオリンピックの「より速く、より高く、、」。

肉体的能力の向上に励む若者には、まったくピッタリの表現です。

 

 学生時代ちょっとかじったボクシングで、私も「より速く、より強い

 パンチを、、」と念じつつ、夢中に練習したものでした。残存効果は

 64歳の今にまで及び、体脂肪14%。 おっと、脱線。

 

               *

 

しかし、いくら鍛えたところで肉体的能力にはおのずと限界があります。

また、年と共に衰えはどんどん来る。まあこんなもんだナ、と身の程を

知らされます。 それは誰しものこと、遅かれ早かれのこと。

 

ところが、精神的能力の方は別です。病気や怪我で脳に損傷を受けたり

しなければ、長きにわたって成長を続けます。特に<意欲>、いや単に

<欲>かな、この方はどこまでも肥大します。即ち、キリがありません。

 

             *   *

 

たとえば仕事で、困難な目標を達成して充足感に浸る。 やったぜ!

ところがすぐ、「でも、もうちょっとイケルんじゃないかな」が始まり、

たちまち「うん、イケルな」となる。それが「そこまで行かなくちゃ」

まで高まるのに、大して時間はかかりません。おお、賞賛すべき意欲!

 

           *   *   *        

 

不況長期化でよみがえるまで、暫く忘れられていたかのごとき「春闘」

というものがあります。昔は例年、その時季になると、赤い鉢巻の元気

な人々が、赤い旗をかざして「賃上げ!」を叫んで行進したものです。

 

小さな工場の形ばかりの団交(若い人たち、分かるかな? 団体交渉)

でしたが、私も付き合いましたよ。そして、世間一般よりはマシな額を、

ずっと早く出して済ませました。みんなで工夫して、それだけ稼ごうぜ!

 

でも、親愛なる労働者諸君が喜んでいたのは、まあ、1ヶ月でしたな。

次の給料日にはアタリマエになり、次の給料日にはもうナントモナイ。

その次の、となると話題にもならない。出れば「来年は、、、」です。

これに腹を立てても始まらない。 人間てものは、ね。 諦めました。

 

         *   *   *   *

 

人生後半、ひと様に使っていただく側で生きることになって、さらに

よく分かりました。使う方は大いに気前を見せたつもりでも、給与を

受ける側としては勝手ながら、「もっと多くてもいいのにね、、」。

ほーら、こんどはオレがやっちゃってるよ。つまり人間、キリが無い。

 

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●意欲というもの、

 

それが人間を向上させる原動力とは先刻承知。けれども、程度により

けり、ですな。オーバーになれば、害悪のもと。そして難しいのは、

「程度」の判定です。特に企業的活動の中では、ね。

 

だいたい組織は、何かを「する」、「しよう」で始まります。つまり

本質的に、意欲に基づいて構築され、運営される仕組みなのですから、

そこでの序列は、意欲のレベルがそのまま反映されたものと言えます。

 

               *

 

そこへ参加するのに、いちいち理屈を立てる人など滅多にいません。

学卒者の場合、ともかく入って( or 入らせて頂いて)、だんだん

その気になって( or させられて)行く。意欲が高まり、実行され、

運良く成果を収めることが出来ると昇進することになる、、、かも

知れない。  蔭ながら、ご成功、お祈りしております。

 

そのように成功を重ねて上に立つ。だから、上の人ほど意欲も高い、

と言えるわけです。中には、ライバルを蹴落とす、という険しい形

で意欲を行動にあらわし、それで上位へ進む人もあるでしょう。

 

いずれにせよ、あなたの職種・職位に関係なく、組織に属して働く

限り、上は強烈な意欲の人たち。その認識が常に必要です。自分は

そういう人に合わせて働くのだ、、、合っているかな?、、と。

 

いや、上下に関わりなく、まわりは意欲のぶつかり合いなのです。

 

そしてさらにご注意願いたいのは、お互いの意欲の「違い」です。

それは時に認識しにくく、また混同しやすいものだ、ということ。

 

             *   *

 

意欲にも色々あります。ある人においては業績意欲だろう、別の人

は品質意欲かも知れない。つまり、それぞれの立場に基づく違いが

当然あり、それら同士が整合するとは、必ずしも言えないのです。

 

一つを<あるべき姿>とすれば、ほかは<かけ離れ>ていることに

なりますから。その状態、<問題>って言うんじゃなかったかな?

 

           *   *   *

 

意欲に満ち、努力を惜しまぬ人々の、善意の組織体においても、この

ように考えれば、問題は常にあり得るのです。もっとも、この種のは、

言わば向上心から生じる問題なので、各自が率直に状況を認識すれば、

調整 and/or 打開に向かうことが可能です。

 

まず、それぞれの自覚や認識を明らかにして論じ合いましょう。そう

すれば、どの人の意欲の方向で、と絞ることは難しくないでしょう。

 

さらにそれを進めて、「では、こうしよう」の方策を定める。次に、

それを実現して行く上で必要な補強策を工夫する、という具合です。

 

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●しかし人間、「誤り多きもの」

 

という定義を当てはめたくなる人も結構います。そこから生じるのは、

「こうすれば、こうなるはず、だった。が、思いがけなく、、」とか、

「これまで良かったのに、何だ、これは?」の、失敗型トラブルです。

前述のを<意欲型>とするなら、こちらのは<用心不足型>ですかな。

 

               *

 

製品を作るにも、計画や業務に着手するにも、それに携わる人は皆、

相当に心を用いているに決まっています。ああ、それなのに、、、。

 

それは多分、前提としていた要素のどれかが失われたり、行なわれず

にいたり、変わってしまったりしたからでしょう。時には、前提自体

が誤っていたり、不充分だった、ということもあります。にも拘らず

それに気付かなかったとか、適切に対処しなかった、、。そんなこと

では、結果に狂いが生じても当然。 即ち、主に、ウッカリ・ミス。

 

             *   *

 

この種の問題の解明は、多くの部分、気が重くなるばかりの作業で、

たとえそれに成功しても、すでに取り返しがつかないこともある。が、

地味な努力こそ尊い。いい加減にしておけば、また?!もあり得ます。

 

解明の方法は、一般的から専門的に至るまで色々あります。モノの

分野では、QC運動などを通じ、各種の技法が普及・徹底されました。

 

Made in Japan が世界中に評価されるものになった背景には、それら

を駆使した<気の重い、地味な作業>を引き受けてくれた、粉骨砕身

を厭わぬ人々が、実に多数いたのです、、

 

、、と書いたら、20年以上も前の記憶が一つよみがえりました。

 

           *   *   *

 

アメリカはオハイオの取引先を訪れた時のことです。日本製品の品質

の良さ、その秘密は何だ?と訊かれたのですが、残念ながらスンナリ

とは答えられませんでした。相当の部分、大メーカーと協力会社との

残酷な力関係が大きな推進要素になっている、と私は自分の体験から

知っており、その業界的構造をほとんど憎んでおりましたのでね。

 

でも、そんな日本人のイヤラシサは話したくない、大体、それを説明

する英語力も無い。 ウン、みんなマジメだからね、で済ませました。

 

「ひとの痛みは三年でも我慢できる」と言います。「残酷」とはその

こと。自分では作れもしない人が、居丈高に、過剰に要求し、あらぬ

疑いをかけるかのごとくに納入品質をチェックする。これに応えるの

だから、まあSM的。 日本的高品質はマゾヒズムの成果! とはね。

 

         *   *   *   *

 

その製造現場を去って久しい。が、今もあまり変わるまいと思います。

クライ余談で、ごめんなさい。しかし、そんなイジメにも類する究明

作業で、やはり自分の側のウッカリだったと改めて気付かされること

もあったのだから嫌になる。 この私にして! と天を仰ぎましたよ。

 

  「私」とした理由:何しろローテク時代でした。製品設計、試作、

  試験機関での認証取得、治工具・工程の設計、設備の導入、素材

  の吟味、作業者教育、追跡試験、カタログ制作、売り込み活動、、

   、、etc. 今は信じ難いほど All-in-one の私、だったので。

 

つまり、どれほど熱心に取り組んだつもりでも、どこかに<不充分>

が潜んでいることはあるものだ、ということ。「誤りを犯すこと」に

おいてもキリの無い、どうしようもない存在なんですよ、人間は。

 

             *****

 

理屈としては、そんなこと誰でも分かる、のレベルの話です。それが

ひとごとなら、時には寛大に聞くことも出来るでしょう。ところが、

身近な誰かから「キミ、これ何だ? どうするのかね?」。グサリと

突きつけられたら、どうでしょう?  素直に応じられますかな?

 

応じられないとしたら、「次の誤り」につながるかも。即ち、キリが

無くなることになり得るのです。繰り返しますが、問題解決には勇気

が必要。そして時に、それは「素直さ」という地味な形で発揮される

ものでもあるのです。               ■竹島元一■

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